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今さら聞けない⁉︎ インドネシア史の基礎知識 英雄編

インドネシアは長い歴史を持つ国です。その中には当然、現代に語り継がれる英雄や偉人がたくさん存在します。

だからこそ、せめて主要な歴史人物の名前と簡単な功績くらいは知っておきたいもの。日本通を自称する外国人が「坂本龍馬って誰だか知らない」と言ってしまうのと同じ現象は、何が何でも避けなければなりません。

今回はインドネシアで働く皆さんのために、インドネシアの偉人5人の足跡を簡単に解説します。

インドネシア共和国の父 スカルノ(1901〜1970)

さて、最初の歴史人物は皆さんご存知のスカルノです。インドネシアの国父である彼についてはもはや説明不要……と思いきや、意外と知られていないことが多いのもこの人の特徴です。

特に日本人が勘違いするのは、

 

「スカルノのフルネームって何?」

 

という部分。実は「スカルノ」はそれ自体がフルネームで、姓に当たるものはありません。

スカルノはジャワ人の父とバリ人の母を持つ、スラバヤ出身の人物です。ジョグジャカルタ生まれの生粋のジャワ人というわけでも、デンパサールのコテコテのバリ人というわけでもなく、今の目で見ても文化的にハイブリットな環境で育ちました。これがのちに大インドネシア構想を生み出す原動力になったのです。

スカルノがインドネシア独立のために重ねた功績はインドネシア人なら誰でも知っていますが、実は独立後の執政は上手く行ったとは言い難いものでした。イギリスから独立したマレーシアに対抗するために「反帝国主義」を提唱し、当時の西側諸国との対決色を強めていったのです。それはすなわち共産主義を掲げる東側陣営に急接近したということですが、そのことが国内での反発を生み出してしまいます。最終的には反共産主義を鮮明にしていたスハルトとの政治闘争に負け、大統領の座を禅定せざるを得ない状況に追い込まれます。

 

実はスカルノ時代のインドネシアは、北朝鮮と国交を樹立しています。当時としてはもちろん大きな反感を買った決断でしたが、21世紀になって日朝会談の舞台にインドネシアが選ばれるなど、国父スハルトの「遺産」が思わぬ形で活かされています。

もう一人の国父 ムハマド・ハッタ(1902〜1980)

次はスカルノの盟友、初代副大統領のハッタです。

ジャカルタの国際空港の名前は「スカルノ・ハッタ」ですが、これは前述の通りスカルノのフルネームではありません(笑)。「スカルノとハッタ」ということですね。この二人は、現10万ルピア札にも描かれています。

ですからこの二人の関係は非常に良好だった……と言いたいところですが、実はスカルノとハッタはアンチテーゼと言ってもいいほど、出自や考え方に大きな隔たりがありました。

特に独立後の政治運営では初代副大統領の地位を担いますが、やがてスカルノとの対立が決定的となり1956年に副大統領を辞職します。

ハッタは西スマトラの女系民族ミナンカバウ族の出身で、実家は商売をしていました。裕福な家庭ですから、当時のインドネシアの宗主国だったオランダへの留学経験もあります。インドネシア独立を促進する一方で、ヨーロッパ諸国とのつながりも強い人物でした。

副大統領辞職後のハッタはスカルノの失脚、スハルトの台頭を眺めつつも沈黙を保ちます。スハルトに対抗するためにハッタを政界復帰させる動きも知識人の間でありましたが、本人がそれに乗ることはついにありませんでした。

玉砕を遂げたバリの英雄 イ・グスティ・グラライ(1917〜1946)

現5万ルピア札の肖像画になっているのが、独立戦争の英雄グラライ中佐(戦死後に将官に昇進)です。

第二次世界大戦が終わると同時に始まったインドネシア独立戦争は、オランダ軍の激しい攻撃により独立軍が窮地に陥ったことがあります。グラライの故郷バリ島も例外ではなく、オランダ軍は同地に容赦ない増派を行いました。

その状況下でゲリラ戦を指揮し、オランダ軍を翻弄しました。


ところでバリの王侯貴族の風習に、「ププタン」という一種の儀式がありました。

これは王宮に迫り来る敵の軍隊に、王族や家臣全員でスクラムを組んで突進し壮絶な戦死を遂げるというものです。日本語では「玉砕」という単語が当てはまります。

グラライはこのププタンを行ったのです。彼の率いる96名の部隊はオランダ軍から降伏勧告が通知されていましたが、それに対しグラライは降伏拒否の返事を出します。

戦闘の結果、グラライの部隊は一人の生存者も残さずププタンを完遂します。この舞台には何と、本国の命令に背いて独立戦争に参加した12名の元日本兵もいました。

そして現代、バリ島の国際空港は「グスティ・グラライ国際空港」と名付けられています。

インドネシアの諸葛亮 ガジャ・マダ(?〜1364)

かつてジャワ島を中心に栄えた、マジャパヒト王国という国がありました。

13世紀ユーラシア世界を恐怖のどん底に陥れていた、モンゴル帝国による世界侵略。ジャワ島もその例外ではなく、一時はフビライ・ハーンの外征によって征服されてしまいます。ところがそれを巧みに利用し、ジャワの旧来の王朝とモンゴルの遠征軍を順番に駆逐して成立したのがマジャパヒト王朝です。

ガジャ・マダはその王朝の宰相として、政治手腕を振るった人物です。

世界史には時たま、王ではない宰相という役割の人物が現れます。諸葛亮、ピピン2世、マザラン、ポンバル侯カルバーリョ、ビスマルクなど、主君を凌駕してしまう能力を発揮する宰相も少なくありません。ガジャ・マダもその一人です。

元々は一介の軍人に過ぎなかったガジャ・マダは、マジャパヒト王国に対する反乱運動の鎮圧で功績を挙げると、王家から絶大な権力を与えられます。ここからマジャパヒト王国の領土拡大が始まり、何と今のインドネシア領の大部分に当たる地域を制圧してしまいました。それどころかマレー半島ですらも、マジャパヒト王国の一部だったことがあります。そういう意味で、ガジャ・マダは現代インドネシアの基礎を作ったといってもいい人物なのです。

 

ちなみにインドネシアの大都市には必ず「ガジャ・マダ通り」という道路があり、ジョグジャカルタには彼の名を冠したガジャ・マダ大学まであります。後世の人々がガジャ・マダに絶大な敬意を向けている様子が、よく分かります。

男女平等の先駆け ラーデン・アジェン・カルティニ(1879〜1904)

19世紀後半から20世紀初頭にかけての時代は、世界的に女性解放運動が提唱された時期でもあります。

日本でも大河ドラマで有名になった新島八重や岩倉使節団の女子留学生など、女子教育に生涯を捧げた偉人がこの時代に出現しています。そしてインドネシアでも、女性の社会進出を精力的に唱えた偉人が存在します。

カルティニは中部ジャワの貴族の娘として生まれました。この当時の上流階級の娘は言うまでもなく、将来の政略結婚のために育てられました。女性に自由な人生を選択する権利など、あるはずもありません。ところがカルティニの場合は先鋭的な考えの祖父の指導で、一流の教育を受けていました。

その中でカルティニは、イスラム教の一夫多妻制に疑問を抱きます。人並み以上の教育を受けオランダ語の書物まで読んでいた彼女からすれば、一夫多妻制は「宗教の名を借りた罪悪」でした。しかし現実は、その習慣のために女性は13歳から実家の敷地の中に押し込められ、結婚まで自由を束縛されてしまいます。カルティニ自身もそうした経験をせざるを得ない時期を迎えましたが、その間にオランダ語の書物を読み漁り、文章力を身に付けます。

やがてカルティニは、オランダの知識人との文通を開始します。この手紙の文章があまりに秀逸で、自然描写に優れていると評判になり書簡集が出版されたのが1911年。カルティニの死後のことです。彼女は僅か25年しか、この世で生きられませんでした。

 

カルティニの誕生日の4月21日は女性解放記念日として、インドネシアの祝日になっています。